明日香の企画した島めぐりツアーはそれは素晴らしいものであった。手配した水上飛行機はVIP用に内部を改造されたもので、座席は広々とした皮張りののソファにテーブルセットが置かれている。ソファはベッドにする事も可能となっている。TVやWi-Fi設備も整い、機内に置いてある冷蔵庫には十数種類のアルコールまで置かれていた。「今から私たちはバア環礁の島に行くのよ。そこでシュノーケリングをする予定だから、アルコールはやめておいた方がいいわね」明日香が翔に話しかけているのを隣の席で聞いていた朱莉が尋ねた。「あの……今日はシュノーケリングをする予定だったのですか?」「ええ、当然じゃない。モルディブまで来てシュノーケリングをやらないなんて話にならないわ」実は2人には内緒にしていたのだが、まだ朱莉は体調が万全とは言えない状態であったのだ。微熱も少しあるし、ましてやシュノーケリング等やった事もないのに、今の自分の身体では出来るはずもない。「あ、あの……。私は病み上がりですので、シュノーケリングはどうぞお2人で行ってきて下さい」「あら、そうなの? だってさっき電話ではすっかり良くなったと言っていたじゃないの?」不機嫌そうな顔で明日香が言うが、しかし、そこを素早く翔は止めた。「まあ、いいじゃないか。考えても見ろ。昨日まで熱があったんだ。しかもなれない海外だし……無理してまた熱がぶり返したら大変だろう? 朱莉さんの言葉に甘えて2人でシュノーケリングをしよう。……悪いね、朱莉さん」翔はチラリと朱莉を見る。「いいえ。私の事はお構いなく。潜らなくても綺麗な海を見れるのですから、私はそれだけで十分ですから」「そうね。それじゃ貴女は陸で留守番していてちょうだい。そうだわ! 島に降りたらまず記念写真を取らなくちゃね。おじいさまにちゃんとモルディブへ行ったことを証明する写真が必要だから」 **** それから約40分かけて、水上飛行機は バア環礁の島に着水した。「うわー、やっぱり素敵な場所ね。青い海に白い砂浜……」飛行機から降り立つとすぐに明日香は感嘆の声を上げた。「ああ、本当に美しい場所だな」翔は明日香の肩を抱き、愛おし気に見つめている。そんな2人の仲良さげな姿を見る度に、朱莉の胸は何かに刺されるかのようにズキリと痛んだ。翔が明日香に向けるあの視線は、一生自分が得る
「お、おい! 明日香! 一体、なんて写真を朱莉さんに取らせるんだよ!」翔は顔を真っ赤にして明日香に抗議した。「あら。別にそれくらい、いいじゃないの。仲の良いカップル同士ならキスしてる写真の1枚や2枚どうって事無いのよ?」「そんな事言うけどな……朱莉さんにあんな写真撮らせるなんて……」そこで朱莉は慌てて首を振った。「あ、あの! 私のことなら気にしないで下さい! た、確かに多少は驚きましたが……そ、その……素敵な写真を撮る事が出来ました……」最後の方では朱莉の声が消え入りそうになっていた。これを明日香と翔は朱莉の照れからきているのだとばかり思っていたのだが、それは大きな間違いであった――「それじゃ、翔。行きましょうか?」ヤシの実をデザインしたビキニの水着姿になった明日香が同じく水着姿の翔に声をかけた。「ああ、分かったよ」「それじゃ、朱莉さん。2時間位楽しんで来るから、貴女は何処かで時間を潰して置いてちょうだい」「はい、分かりました」朱莉が返事をすると、翔はそれじゃよろしくと簡単に朱莉に告げただけで振り向く事もせず、2人で海へと向かって行った。2人の背中を見送り、やがて見えなくなると朱莉は溜息をついた。「まさか……あんな写真を撮ることになるなんて……」朱莉は桟橋に座り込むと膝を抱えて美しい景色を眺めた。なのに。思い浮かぶのは先ほどの翔と明日香のキスシーンの映像ばかりだ。そして気付けば朱莉の目には涙が浮かんでいた。(馬鹿だな……私。明日香さんと翔先輩が恋人同士なのは知ってるのに……2人がキスしているのを見せられただけで……こんなにショックを受けるなんて……私……それだけ翔先輩の事が好きだったんだ……)朱莉は抱えた膝の上に自分の頭を埋めた。だが、朱莉が傷ついていたのはそれだけでは無い。ホテルを出た頃から翔が何となく以前より冷たい態度を取るようになったのも朱莉の心を傷つけるには十分だった。 翔は明日香の風当たりが朱莉に強く向けられるのを防ぐ為にわざと素っ気ない態度を取るように決めたのだが、そんな翔の考えが朱莉に伝わるはずもなく、ますます朱莉の心は傷付いていく。ぼんやりと海を眺めていたが、やがて朱莉は立ち上がった。(こんなに綺麗な場所なんだもの。もう二度と来れないだろうから、ちゃんと目に焼き付けておかないとね) 朱莉はスマホを取り出すと、
朱莉が再び先程の場所へ戻っても、未だに明日香たちが戻ってくる気配は無い。(この先どうしようかな……)この島は飛行機の上から見た島々の中では比較的大きい島の様で、ビーチ沿いには水上ヴィラが立ち並んでいる。(海の上に立っているなんて素敵なホテルだな……。もし、この契約結婚が終わって、お母さんも丈夫な身体になれていたら一度二人で泊まってみたい)そんな事を考えていると、ようやく明日香と翔が帰って来た。明日香はかなりハイテンションになっており、大きな声で騒ぎながら翔の腕にしっかり絡め、こちらへ向かって歩いてくる。「お待たせ、朱莉さん」「お帰りなさい、お2人供。どうでしたか? シュノーケリング楽しめましたか?」「ああ。そうだな」翔は相変わらず朱莉と目を合わそうとせずに素っ気なく返事をする。その様子を何故か明日香は満足そうに見て、口元に薄っすらと笑みを浮かべると朱莉に向き直った。「シュノーケリング、最高だったわ。海は綺麗だし、魚の群れは可愛かったしね~。朱莉さんも一緒にやれば良かったのに。ね、翔もそう思わない?」明日香は翔にしなだれかかる。「あ、ああ……。でもやるかやらないかは本人の自由だから、俺達がどうこう言うべき事では無いと思うけどな」翔は朱莉の方を見向きもしない。(翔先輩……)朱莉は悲しい気持ちを押し殺し、笑顔で言った。「私はこの素敵な景色を見れただけで充分楽しめましたから。それに、あそこに立ち並んでいる水上ヴィラもとても素敵ですね。外側から少しだけ見たんですけど、海の上にホテルが建っているなんて驚きました」「あら、そうなの? 知らなかったのかしら? まあ貴女じゃ、無理ないわね。そうね……空き部屋があれば泊まれない事も無いんだけど。でも難しいわね、きっとこの時期は」明日香は肩をすくませる。「……それなら食事だけでもこのヴィラのレストランで食べて行こう」翔が明日香を見つめた。「あ! そうね。それがいいわ。ついでにシャワールーム借りられないかしら~」明日香がチラリと翔の方を見た。「よし、分かった。それも合わせて聞いて来るよ」翔がヴィラの方へ向かって歩いて行くと、明日香が尋ねてきた。「ねえ? 朱莉さん……。貴女、ひょっとして何か翔を怒らせる事したのかしら?」「え!?」突然不意を突かれた質問に驚く朱莉。「い、いえ……。私は別
明日香と翔がホテルのシャワールームを借りて出て来るのを朱莉はホテルのラウンジでおとなしく待っていた。このホテルは水上ヴィラだけあって、訪れている客は全てカップルだらけである。(他の人達から見たら私達って完全におかしな組み合わせって思われてしまうんだろうな…)朱莉は心の中で小さなため息をついた。何気なくスマホを手に取ったその時、メッセージが入っていることに気が付いた。開いて見ると2件メッセージが入っており、1件はエミ、そしてもう1件は琢磨からであった。(え……? 九条さんから? どうしたんだろう? 何かあったのかな?)わざわざ琢磨から、メッセージが入るとは……。何か急ぎの用事なのかもしれない。そこで先に琢磨のメッセージから読むことにした。『こんにちは、朱莉さん。御加減はいかがでしょうか? こちらから紹介させていただきました現地ガイドの女性から体調を崩されたと連絡を受けました。その後のお身体の具合はいかがでしょうか? 何かお困りのことがあればいつでも連絡を下さい。出来る限り対処させていただきます』「九条さんて相変わらず、真面目な人だな。取りあえず、返信しておかないと」『こんにちは。おかげさまで体調は殆ど良くなりました。今は明日香さんと翔さんに誘われて、モルディブの島めぐりをしています。これから水上ヴィラのレストランで食事をするところです。気に掛けていただいて本当にありがとうござます』メッセージを打ち込んで、送信すると今度はエミからのメッセージを開いた。『アカリ、具合はどう? 楽しんでる? 明日はアカリの為にとびきりのガイドをしてあげるから楽しみにしていてね。返信はしなくて大丈夫よ。都合が悪くなった時には連絡いれてね』「エミさん……」朱莉はギュッとスマホを握りしめて思った。明日香と翔の側にいるのは辛いけど、自分は周りの人々に恵まれていると感じた。それからさらに10分程待っていると、明日香と翔が腕を組みながらこちらへ戻って来る姿が目に入った。2人仲良く腕組みをして歩く姿は正に美男美女の誰が見てもお似合いのカップルそのものである。「お待たせ、朱莉さん」明日香はすっかりご機嫌な様子で朱莉に声をかけてきた。「すまない、待たせたね」翔も言いながらソファに座るが、そこには何の感情も伴ってはいない。「ああ、そうだ。朱莉さん! 素晴らしい話があるのよ
ホテルの中のレストランはビュッフェスタイルで、どれもが絶品の味だった。特に朱莉が気に入ったのは色々な食材を自分でトッピングして食べるヌードルだった。ボイルしたエビやイカ、タコ……それにワンタン。組み合わせ自在で、麺の歯ごたえも朱莉の好みだった。食事をしながらチラリと自分の向かい側に隣同士で座る明日香と翔の様子に目を配る。明日香はまるで新婚の新妻の如く、時折フォークに刺した料理を翔の口に入れて楽しそうに笑っている。そしてそんな明日香を愛おし気に見つめる翔の瞳。(駄目よ、あの人達を意識しちゃ……。私のこの気持ちを2人にだけは絶対に知られちゃいけないのだから)朱莉は自分の存在を消す様に静かに、黙々と食事を口に運んだ。食事終了後、翔が席を外した時に明日香が尋ねてきた。「ねえ、朱莉さん。私と翔は島の散歩に行って来るけど、貴女はどうするの?」「え……? 私ですか?」本当は朱莉もこの素敵な島の散歩をしてみたいと思ったが、そんな事は口に出せるはずもない。いっそ、自分に声をかけないでくれていたら、時間をずらし散歩に行く事が出来たのに。朱莉は一瞬、ギュッと口を結ぶと言った。「私は部屋で休んでいます。それで……お聞きしたい事があるのですが。私、何も着替えとか用意していないのいです。明日香さんは着替え持って来ているのですか?」「ええ、一応持って来てるわ。あ……そうだったわね。ごめんなさい、朱莉さん。突然誘ったから着替えの準備をしていなかったのよね?」「はい……でも1泊だけなら着替えなくても大丈夫です」「あ、大丈夫よ! 私の服を貸してあげるから。予備に持って来ているのよ。それに新品の下着もあるから、貴女にあげるわ。見た所私とサイズ的にそう変わらないように見えるしね」明日香は朱莉の身体をジロジロ見ながら言う。「え? いいのですか? でも迷惑では……」「何言ってるの? それぐらい私にとってはどうってことないわ。そうね……今夜10時に私達のヴィラに服と下着を取りに来てくれるかしら? 鞄に入れて部屋の入り口においておくから」「はい、ありがとうございます」朱莉は深々と頭を下げた。**** 夜の帳が下りて、すっかり辺りが暗くなり、ヴィラがオレンジ色の明かりに包まれる頃。朱莉は自分が宿泊している水上ヴィラを出た。確か明日香と翔が宿泊している部屋は自分の部屋から右
翌朝―― 朱莉はぼんやりした頭で目が覚めた。時計を見るとまだ朝の6時を少し過ぎたところであった。どうやら昨夜は泣きながら眠ってしまっていたようで顔に触れると涙の跡が残っている。こんな顔で明日香と翔の前に顔を見せるわけにはいかない。朱莉は急いでベッドから起きると洗面台で顔を洗い、じっと自分の顔を鏡で見る。「駄目駄目、こんな顔していたら……笑顔でいなくちゃ」そして口角を上げて無理に笑顔を作って笑ってみる。「うん、これなら……多分大丈夫だよね……」そしてエミにメッセージを送った。『おはようございます。朝早くからすみません。実は今一緒に旅行に来ている方たちと別の島に遊びに来ていますので、本日の予定はキャンセルさせて下さい。申し訳ございません。また連絡させていただきます』メッセージを送った後、朱莉はぼんやりと外の景色を眺めていた。外はこの世の物とは思えないほどの美しい景色が広がっているというのに、朱莉の心はちっとも晴れやかでは無かった。瞳を閉じると、どうしても昨夜の明日香と翔の抱き合っている姿が蘇ってきてしまう。それに翔は朱莉があの時、室内へ入ってきたことにはまるきり気が付いている様子は無かったが、明日香ははっきり朱莉の顔を見た。そしてあろうことか、勝ち誇ったような顔で朱莉を見て笑みを浮かべたのだ。つまり、明日香は始めから自分と翔の情事の場面を朱莉に見せつける為に、自分たちの部屋へと呼んだのである。朱莉は何故明日香がそこまで自分に意地悪をするのか分からなかった。ましてや男女の行為を朱莉にわざと見せつけるなど…常軌を逸しているとしか思えない。(私はそれ程までに明日香さんに憎まれているの………?)普段から明日香と翔の生活の中に入り込まないようにしていた。電話もかけず、1週間に1度だけのメッセージの交換しか行っていないというのに。朱莉にはこれ以上どうやって自分の気配を消せばよいのか、もう分からなくなっていた。明日香にとっての朱莉は空気のような存在どころか、目の上のたんこぶのような存在なのかもしれない。いっその事、完全に無視してくれている方が、どんなに精神的に楽だろう。だが、明日香はそれすら許してはくれないのかもしれない。本当は今すぐ水上飛行機に乗ってヴェラナ国際空港のある、現在朱莉が宿泊しているホテルに帰りたいくらいだった。明日香とどんな顔
しかし、それから1時間以上経過しても明日香達からは何の音沙汰も無い。そうなると朱莉は別の意味で心配になってきた。ひょっとしたら、あの2人は自分を置いて、別の島めぐりに飛行機に乗って出かけてしまったのではないだろうか……? 悪い考えばかりが頭に浮かんでくる。10時まで待って何の連絡も来なければ自分の方から明日香のスマホに連絡を入れてみよう……。朱莉はそう心に決めた。するとその矢先、突然朱莉のスマホが鳴った。手に取ると着信相手は明日香からであった。朱莉は慌ててスマホをタップすると電話に出た。「はい、おはようございます」『朱莉さん? 貴女今何処にいるの?』「どこって……部屋ですけど?」『嫌だ。まだそんな所にいるの? もうホテルを出るからすぐに荷物をまとめてラウンジまで来てちょうだい。早くしてよ!』すぐに電話は切れてしまった。(え? そういう事だったの? 私は2人に特に連絡を入れず食事に行っても良かったと言う事なの?)本当は自分から、朝連絡を入れるべきだったのだろうか? だが昨夜の2人の情事を見せられ、その最中の明日香と視線が合ってしまったと言うのに、どうして連絡など出来るだろうか?「そっか……一緒に来ていても、1人で行動しなさいって事だったんだね……」思わず、悲しみが込み上げて手が止まってしまい、スマホの着信で我に返った。相手は当然明日香からである。『どう? 朱莉さん、もう片付けは終わったの?』イライラした口調で明日香がいきなり尋ねてくる。「あ、すみません。まだです……」『まったく随分呑気な人ね? いい? 人を待たせてはいけないのよ? こんなの一般常識じゃないの」すると脇から翔の窘める声が聞こえてきた。『まあ、いいじゃ無いか。明日香。ほら、昨日撮影したデジカメの画像でも見て待っていよう』電話越しに聞こえてくる翔の声は、朱莉に向けられるそれとは違って、とても優しい声だった。『全く仕方ないわね……それじゃ待ってるから早く準備して来なさいよ?』一方的に電話を切られてしまった。ふう……。朱莉は小さくため息を付いた。「急がなくちゃ。明日香さんを怒らせたらいけないものね」そして少ない荷物を片付け始めた―― 朱莉が荷物を持ってラウンジに行くと、翔と明日香が仲良さげにデジカメを覗き込んでいた。「すみません、お待たせいたしました」す
――17時過ぎ フルレ島のホテルに戻って来た翔がシャワールームから出てくると、明日香は1人先にソファに座ってシャンパンを飲んでくつろいでいた。その表情には笑みが浮かんでいる。「どうしたんだ、明日香。何か楽しい事でもあったのか?」バスローブを羽織り、濡れた髪をタオルで拭きながら翔は明日香に近付いた。「ええ、ちょっとね……昨日の出来事を思い出していたから」「ああ、確かに水上ヴィラは最高だったし、海も綺麗で素晴らしかったな」翔は笑みを浮かべ、明日香の隣に座ると肩を抱き寄せた。「そうね。でも私が思い出していたのはそんなことじゃないけどね」空になったグラスをテーブルの上に置き、明日香は翔に寄りかかった。「それじゃ何を思い出していたんだ?」明日香の髪を優しく撫でる翔。「フフフ……朱莉さんのことよ」それを聞くと、明日香の髪を撫でていた翔の手がピタリと止まった。「ああ……彼女か。明日香、彼女の話をするのはやめにしないか? ……不愉快になってくる」翔は明日香の肩を抱き寄せなた。「あら? 何故なの ?最初の頃は朱莉さんの事を気遣っているように見えたけど?」「そうかもしれないが、今朝の話を聞いて考えが変わったんだ。全く……あんな女だとは思わなかった」翔の声には憎しみが籠っていた。「今朝の話? どんな話だったかしら?」それを聞いた翔は目を見開く。「おいおい、明日香。しっかりしてくれよ。お前が今朝話したんじゃないか」「え? 私が今朝話したこと?」「本当に覚えていないのか? 明日香、昨夜俺に話してくれただろう? 朱莉さんが着替えの服を持って来ていないから、夜取りに来てもらう約束をしているって。それで朱莉さんから部屋にお邪魔するのは悪いから部屋の出口のところに置いておいて欲しいと言われたって話してくれただろう? それなのに彼女は取りに来なかったんじゃ無いか」「ああ……そう言えばそんな話……したかもね」明日香はじっと何かを考え込むかのように言った。「それにしても自分から頼んでおいて平気で約束を破るなんて……。そんな人間だとは思わなかった。見損なったよ……」翔が溜息をつくと、明日香は楽しそうに肩を震わせて笑った。「フフフ……違うの、そんなんじゃないのよ」「何が違うって?」「どうしようかな~。ほんとの事話ちゃおうかな……?」明日香は上目遣い
「それじゃあ、朱莉さん。また明日」琢磨は靴を履くと朱莉を振り返った。「はい。又明日……」「朱莉、それじゃあな」航は朱莉の頭を撫でた。「うん、又ね?」それを見た琢磨は航を咎める。「安西君。年上の女性に頭を撫でるなんて失礼だと思わないのか?」「いや別に。俺に頭撫でられるの、朱莉はいやか?」「え……? 全然いやじゃないけど?」朱莉が首を傾げて返事をし、航は勝ち誇った顔で琢磨を見る。「ほら、見ろ。朱莉は嫌じゃないってよ?」「……っ!」琢磨は悔しそうに航を見つめ……促した。「よし、それじゃ……行くぞ?」「ああ、いいぜ」どことなく喧嘩腰の2人を見て朱莉は流石に心配になってきた。「あの……」「「何?」」2人が同時に朱莉を見た。彼らの間に異常な緊張感を感じた朱莉は自分の伝えたい気持ちを言葉にすることが出来ない。「い、いえ。それじゃ……おやすみなさい」「ああ、お休み朱莉。ちゃんと戸締りして寝るんだぞ?」何処までも航が朱莉の彼氏の様に振舞う姿が琢磨には我慢できなかった。料理が「朱莉さん。今度は俺が手料理を振舞うよ。こう見えて俺は意外と料理が得意なんだ」本当は包丁すら握ったことが無いのに、琢磨はつい口から出まかせを言ってしまった。すると航も口を挟んできた。「朱莉! 俺も今度はお前の為に料理を作るからな!? 楽しみにしてろよ!」そしてじろりと琢磨を睨み付ける。「あ、ありがとうございます……」朱莉は航と琢磨の雰囲気に押されながら礼を述べた。「じゃあな、朱莉」「またね、朱莉さん」扉を開けて出ていく航と琢磨。—―バタン……玄関のドアが閉められた。「つ、疲れた…」ようやく朱莉は安堵の溜息をつき、その場に座り込んだ——****「「……」」琢磨と航は無言でエレベータの隅に立ち、互いをけん制し合っていた。やがてエレベーターが1階に着いたので、2人は無言で降りると琢磨が口を開いた。「取りあえず俺の車の中で話をしようか」「ああ、いいぜ」「それじゃ待ってろ。今車を前に持って来るから」琢磨はぶっきらぼうに言うと、駐車場へ車を取りに行った。そんな琢磨の背中を見ながら航は呟いた。「全く……あの九条って男は俺の想像していたタイプとは大分違ったな。でもある意味、京極よりは分かりやすいだけマシか……。あいつの方がたちが悪そうだもんな
今、3人で囲んだ食卓は一種異様な緊張感が漂っていた。航も琢磨も互いをけん制し合うように睨み合っているのを前に、朱莉はどうしたら良いか分からなかった。(困ったな……。どうしてこんなことになってしまったんだろう? 航君も九条さんも何だかいつもと雰囲気が違うし……)朱莉は翔のことしか目に入っていないので、自分が原因で2人が険悪な雰囲気に陥っていることに全く気が付いていなかったのだ。「あ、あの……。今夜は少し冷えるのでブイヤベースを作ってみたのですが……。2人供食べれます……か?」恐る恐る朱莉は尋ねる。「ああ、食べるに決まってるだろう? 俺は好き嫌いは何も無いし、朱莉の作った食事なら何でも食べるぞ?」航が笑顔で朱莉に言う。「朱莉さん。俺も好き嫌いは何も無いから大丈夫だよ。朱莉さんの作った食事、とても楽しみだよ」琢磨も満面の笑顔で言うと、琢磨と航は互いをジロリと睨み合った。「あ、あの……そ、それでは今出しますね……」すると航が立ち上った。「朱莉、手伝うぞ? 何をしたらいい?」「ありがとう、航君。それじゃ食器を出してくれる?」朱莉は笑顔で航に言うのを琢磨は面白くなさそうに見ている。航は朱莉に礼を言われると、これ見よがしにチラリと琢磨を見た。(どうだ? 九条。俺は1週間近く朱莉と同居していたから息がぴったりなんだよ)一方の琢磨は航の行動をイライラしながら見ている。(何なんだ……? あいつは! 京極とはまた違った意味で人をイラつかせる男だ……!)やがてテーブルの上にはブイヤベース、さまざまな具材が乗ったバゲット、アボガドとエビのカクテルサラダが並べられた。「へえ~。美味しそうだ。流石だね、朱莉さん。色とりどりで見た目も華やかでとても素敵だよ。写真を撮ったらSNS映えしそうだね」琢磨の言葉に朱莉は頬を染めた。「あ、ありがとうございます……九条さん」そしてそんな様子を面白く無さげに見る航。(どうだ? お前も何か気の利いたセリフの1つでも言ってみろよ)琢磨は自分でも大人げないとは思いつつ、挑戦的な目で航を見た。「あ、朱莉!」航は朱莉を大きな声で呼ぶ。「な、何? 航君」「全部うまそうだ! いや、美味いにきまってる!」「びっくりした〜突然大きな声を出すから。それじゃどうぞ。食べてみて下さい」「ああ、いただこうかな?」言いながら
航と琢磨は互いにエントランスで睨み合っていた。朱莉の姿がいなくなると最初に口を開いたのは琢磨の方だった。「名前は聞かされていなかったけど君なんだろう? 興信所の調査員で、仕事の為に沖縄に来て朱莉さんと知り合って、同居していたって言うのは」「ああ、そうさ。朱莉、あんたに俺のこと話していたんだな?」航はニヤリと笑った。「どうやらお前は相当口が悪いみたいだな? だったらこちらも遠慮するのはもうやめるか」「へえ? あんたは京極とはタイプが違うんだな?」「何? 京極のことを知ってるのか?」「その反応からするとあんたも京極のことを良くは思っていないようだな?」琢磨は航の口ぶりから警戒心をあらわにした。「お前一体どこまで知ってるんだ? 興信所の調査員だって言ってたな? ひょっとして朱莉さんと知り合ったのも俺達絡みの件でか?」「へえ? その口ぶりだと心当たりがありそうだな? だが俺がそんなこと話すと思うのか? 仮にも俺は調査員だからな」航は挑発をやめない。そもそも朱莉と翔の偽装結婚のきっかけを作った琢磨が憎くて堪らなかった。(九条の奴が朱莉をあんな奴に紹介さえしなければ……)そう思うと琢磨に対する怒りがどうにも抑えられない。琢磨も初めの内は何故自分が航から敵意のこもった目で睨まれるのか見当がつかなかったが、調査員と言うことを考えれば、今迄の経緯を全て知ってるかもしれないと気付いた。(ここで話をするのはまずいな……)「おい、どうした? 急に黙って」航は怪訝そうな顔を見せた。「取りあえず……ここで話をするのは色々とまずい」「あ、ああ。言われてみればそうだな」航も辺りを見渡しながら、京極に言われた言葉を思い出した。「あまり遅くなると朱莉さんが心配する。取りあえず話は後にしよう。もし時間があるなら朱莉さんの手料理を食べた後場所を変えて話をしないか?」琢磨は航に提案した。「ああ。それでいいぜ。あんたには言いたいことが山ほどあるからな」航の言葉に、琢磨は不敵な笑みを浮かべる。「ふ~ん。どんな話が聞けるかそれは楽しみだ」そして2人の男は互いを見つめ……「「取りあえず荷物を降ろすか」」声を揃えた――****「航君と九条さん、遅いな……」料理を作りながら朱莉はソワソワしていた。「喧嘩とかしていたらどうしよう……。迎えに行ってみよう
琢磨は雨に打たれながら、朱莉と航が抱き合ている姿を呆然と見ていた。(誰なんだ……? あの男……航君と呼んでいたけど、まさか朱莉さんが沖縄で同居していた男なのか?)気付けば琢磨は歯を食いしばり、両手を強く握りしめていた。そして一度自分を落ち着かせる為に深呼吸すると、2人に近寄って声をかけた。「朱莉さん。その人は誰だい?」すると、その時航は初めて朱莉から離れて顔を上げ、琢磨の顔を見ると表情を変えた。「あ……あんたは九条琢磨……」(何? この男は俺のことを知っているのか?)そこで琢磨は尋ねた。「君は何故俺のことを知っているんだい?」すると航は言った。「そんなのは当たり前だろう? 自分がどれだけ有名人か分かっていないのか? 元鳴海グループの副社長の秘書。そして今は【ラージウェアハウス】の若き社長だからな」「そうか……。それで君は?」琢磨はイラついた様子で航を見た。航は先ほどからピタリと朱莉に張り付いて離れない。それがどうにも気に入らなかった。「あの、九条さん。彼は……」朱莉は琢磨のいつもとは違う様子に気付き、口を開きかけた所を航が止めた。「いいよ、朱莉。俺から自己紹介するから」その言葉を聞き、琢磨は眉が上がった。(朱莉……? 朱莉さんのことを呼び捨てにしているのか!? どう見ても朱莉さんよりは年下に見えるこの男は……)「俺は安西航。仕事で沖縄へ行った時に朱莉と知り合って1週間程あのマンションで同居させて貰っていたんだ。貴方ですよね? 朱莉の為にあのマンションを選んでくれたのは。2LDKだったからお陰で助かりましたよ」何処か挑発的に言う航。腹の中は怒りで煮えたぎっていた。(くそ……っ! この男が朱莉を鳴海翔に紹介しなければ朱莉はこんな目に遭う事は無かったのに……! それにしても悔しいが、顔は確かにいいな……)琢磨は何故航がこれ程自分を睨み付けているのか見当がつかなかった。(ひょっとしてこの男は朱莉さんのことが好きだから俺を目の敵にしてるのか?)一方、困ってしまったのは朱莉の方だ。まさか今迄音信不通だった航が突然自分の住んでいる億ションに現れるとは夢にも思っていなかったからだ。航とは話がしたいと思っていたので朱莉は提案した。「あの……取りあえず中へ入りませんか? 食事を用意するので」すると航は笑顔になった。「いいのか? 朱
「翔さん、落ち着いて下さい。医者の話では出産と過呼吸のショックで一時的に記憶が抜け落ちただけかもしれないと言っていたではありませんか。それに対処法としてむやみに記憶を呼び起こそうとする行為もしてはいけないと言われましたよね?」「ああ……だから俺は何も言わず我慢しているんだ……」「翔さん。取りあえず今は待つしかありません。時がやがて解決へ導いてくれる事を信じるしかありません」やがて、2人は一つの部屋の前で足を止めた。この部屋に明日香の目を胡麻化す為に臨時で雇った蓮の母親役の日本人女子大生と、日本人ベビーシッター。そして生れて間もない蓮が宿泊している。 翔は深呼吸すると、部屋のドアをノックした。すると、程なくしてドアが開かれ、ベビーシッターの女性が現れた。「鳴海様、お待ちしておりました」「蓮の様子はどうだい?」「良くお休みになられていますよ。どうぞ中へお入りください」促されて翔と姫宮は部屋の中へ入ると、そこには翔が雇った蓮の母親役の女子大生がいない。「ん? 例の女子大生は何処へ行ったんだ?」するとシッターの女性が説明した。「彼女は買い物へ行きましたよ。アメリカ土産を持って東京へ戻ると言って、買い物に出かけられました。それにしても随分派手な母親役を選びましたね?」「仕方なかったのです。急な話でしたから。それより蓮君はどちらにいるのですか?」姫宮はシッターの女性の言葉を気にもせず、尋ねた。「ええ。こちらで良く眠っておられますよ」案内されたベビーベッドには生後9日目の新生児が眠っている。「まあ……何て可愛いのでしょう」姫宮は頬を染めて蓮を見つめている。「あ、ああ……。確かに可愛いな……」翔は蓮を見ながら思った。(目元と口元は特に明日香に似ているな)「残念だったよ、起きていれば抱き上げることが出来たんだけどな。帰国するともうそれもかなわなくなる」すると姫宮が言った。「いえ、そんなことはありません。帰国した後は朱莉さんの元へ会いに行けばいいのですから」「え? 姫宮さん?」翔が怪訝そうな顔を見せると、姫宮は、一種焦った顔をみせた。「いえ、何でもありません。今の話は忘れてください」「あ、ああ……。それじゃ蓮の事をよろしく頼む」翔がシッターの女性に言うと、彼女は驚いた顔を見せた。「え? もう行かれるのですか?」「ああ。実はこ
アメリカ—— 明日いよいよ翔たちは日本へ帰国する。翔は自分が滞在しているホテルに明日香を連れ帰り、荷造りの準備をしていた。その一方、未だに自分が27歳の女性だと言うことを信用しない明日香は鏡の前に座り、イライラしながら自分の顔を眺めている。「全く……どういうことなの? こんなに自分の顔が老けてしまったなんて……」それを聞いた翔は声をかける。「何言ってるんだ、明日香。お前はちっとも老けていないよ。いつもどおりに綺麗な明日香だ」すると……。「ちょっと! 何言ってるのよ、翔! 自分迄老け込んで、とうとう頭もやられてしまったんじゃないの? 今迄そんなこと私に言ったこと無かったじゃない。大体おかしいわよ? 私が病院で目を覚ました時から妙にベタベタしてくるし……気味が悪いわ。もしかして私に気があるの? 言っておくけど仮にも血が繋がらなくたって私と翔は兄と妹って立場なんだから! 私に対して変な気を絶対に起こさないでね!?」明日香は自分の身体を守るように抱きかかえ、翔を睨み付けた。「あ、ああ。勿論だ、明日香。俺とお前は兄と妹なんだから……そんなことあるはず無いだろう?」苦笑する翔。「ふ~ん……翔の言葉、信用してもいいのね?」「ああ、勿論さ」「だったらこの部屋は私1人で借りるからね! 翔は別の部屋を借りてきてちょうだい。 あ、でも姫宮さんは別にいて貰っても構わないけど?」明日香は部屋で書類を眺めていた姫宮に声をかける。「はい、ありがとうございます」姫宮は明日香に丁寧に挨拶をした。「それでは翔さん、別の部屋の宿泊手続きを取りにフロントへ御一緒させていただきます。明日香さん。明日は日本へ帰国されるので今はお身体をお安め下さい」姫宮は一礼すると、翔に声をかけた。「それでは参りましょう。翔さん」「あ、ああ。そうだな。それじゃ明日香、まだ本調子じゃないんだからゆっくり休んでるんだぞ?」部屋を出る際に翔は明日香に声をかけた。「大丈夫、分かってるわよ。自分でも何だかおかしいと思ってるのよ。急に老け込んでしまったし……大体私は何で病院にいたの? 交通事故? それとも大病? そうでなければ身体があんな風になるはず無いもの……」明日香は頭を押さえながらブツブツ呟く「ならベッドで横になっていた方がいいな」「そうね……。そうさせて貰うわ」返事をすると
琢磨に礼を言われ、朱莉は恐縮した。「い、いえ。お礼を言われるほどのことはしていませんから」「朱莉さん、そろそろ17時になる。折角だから何処かで食事でもして帰らないかい?」「あ、それならもし九条さんさえよろしければ、うちに来ませんか? あまり大した食事はご用意出来ないかもしれませんが、なにか作りますよ?」朱莉の提案に琢磨は目を輝かせた。「え?いいのかい?」「はい、勿論です。あ……でもそれだと九条さんの相手の女性の方に悪いかもしれませんね……」「え?」その言葉に、一瞬琢磨は固まる。(い、今……朱莉さん何て言ったんだ……?)「朱莉さん……ひょっとして俺に彼女でもいると思ってるのかい?」琢磨はコーヒーカップを置いた。「え? いらっしゃらないんですか?」朱莉は不思議そうに首を傾げた。「い、いや。普通に考えてみれば彼女がいる男が別の女性を食事に誘ったり、こうして買い物について来るような真似はしないと思わないかい?」「言われてみれば確かにそうですね。変なことを言ってすみませんでした」朱莉が照れたように謝るので琢磨は真剣な顔で尋ねた。「朱莉さん、何故俺に彼女がいると思ったの?」「え? それは九条さんが素敵な男性だからです。普通誰でも恋人がいると思うのでは無いですか?」「あ、朱莉さん……」(そんな風に言ってくれるってことは……朱莉さんも俺のことをそう言う目で見てくれているってことなんだよな? だが……これは喜ぶべきことなのだろうか……?)琢磨は複雑な心境でカフェ・ラテを飲む朱莉を見つめた。すると琢磨の視線に気づく朱莉。「九条さんは何か好き嫌いとかはありますか?」「いや、俺は好き嫌いは無いよ。何でも食べるから大丈夫だよ」それを聞いた朱莉は嬉しそうに笑った。「九条さんも好き嫌い無いんですね。航君みたい……」その名前を琢磨は聞き逃さなかった。「航君?」「あ、いけない! すみません、九条さん、変なことを言ってしまいました。そ、それじゃもう行きませんか?」朱莉は慌てて、まるで胡麻化すように席を立ちあがった。「あ、ああ。そうだね。行こうか?」琢磨も何事も無かったかの様に立ち上がったが、心は穏やかでは無かった。(航君……? 一体誰のことなんだろう? まさかその人物が朱莉さんと沖縄で同居していた男なのか?それにしても君付けで呼ぶなん
14時―― 朱莉がエントランス前に行くと、すでに琢磨が億ションの前に車を停めて待っていた。「お待たせしてすみません。九条さん、もういらしてたんですね」朱莉は慌てて頭を下げた。「いや、そんなことはないよ。だってまだ約束時間の5分以上前だからね」琢磨は笑顔で答えた。本当はまた今日も朱莉に会えるのが嬉しくて、今から15分以上も前にここに到着していたことは朱莉には内緒である。「それじゃ、乗って。朱莉さん」琢磨は助手席のドアを開けた。「はい、ありがとうございます」朱莉が助手席に座ると、琢磨も乗り込んだ。シートベルトを締めてハンドルを握ると早速朱莉に尋ねた。「朱莉さんは何処へ行こうとしていたんだっけ?」「はい。赤ちゃんの為に何か素敵なCDでも買いに行こうと思っていたんです。それとまだ買い足したいベビー用品もあるんです」「よし、それじゃ大型店舗のある店へ行ってみよう」「はい、お願いします」琢磨はアクセルを踏んだ――**** それから約3時間後――朱莉の買い物全てが終了し、車に荷物を積み込んだ2人はカフェでコーヒーを飲みに来ていた。「思った以上に買い物に時間がかかってしまったね」「すみません。九条さん……私のせいで」朱莉が申し訳なさそうに頭を下げた。「い、いや。そう意味で言ったんじゃないんだ。まさか粉ミルクだけでもあんなに色々な種類があるとは思わなかったんだよ」「本当ですね。取りあえず、どんなのが良いか分からなくて何種類も買ってしまいましたけど口に合う、合わないってあるんでしょうかね?」「う~ん……どうなんだろう。俺にはさっぱり分からないなあ……」琢磨は珈琲を口にした。「そう言えば、すっかり忘れていましたけど、九条さんの会社はインターネット通販会社でしたね?」「い、いや。俺の会社と言われると少し御幣を感じるけど……まあそうだね」「当然ベビー用品も扱っていますよね?」「うん、そうだね」「それでは今度からはベビー用品は九条さんの会社で利用させていただきます」「ありがとう。確かに新生児がいると母親は買い物も中々自由に行く事が難しいかもね。……よし、今度の企画会議でベビー用品のコンテンツをもっと広げるように提案してみるか……」琢磨は仕事モードの顔に変わる。「ついでに赤ちゃん用の音楽CDもあるといいですね。出来れば視聴も試せ
朝食を食べ終わり、片付けをしていると今度は朱莉の個人用スマホに電話がかかってきた。それは琢磨からであった。昨夜琢磨と互いのプライベートな電話番号とメールアドレスを交換したのである。「はい、もしもし」『おはよう、朱莉さん。翔から何か連絡はあったかい?』「はい、ありました。突然ですけど明日帰国してくるそうですね」『ああ、そうなんだ。俺の所にもそう言って来たよ。それで明日香ちゃんの為に俺にも空港に来てくれと言ってきたんだ。……当然朱莉さんは行くんだろう?』「はい、勿論行きます」『車で行くんだよね?』「はい、九条さんも車で行くのですね」『それが聞いてくれよ。翔から言われたんだ。車で来て欲しいけど、俺に運転しないでくれと言ってるんだ。仕方ないから帰りだけ代行運転手を頼んだんだよ。全く……いつまでも俺のことを自分の秘書扱いして……!』苦々し気に言う琢磨。それを聞いて朱莉は思った。(だけど九条さんも人がいいのよね。何だかんだ言っても、いつも翔先輩の言うことを聞いてあげているんだから)朱莉の思う通り、琢磨自身が未だに自分が翔の秘書の様な感覚が抜けきっていないのも事実である。それ故、多少無理難題を押し付けられても、つい言いなりになってしまうことに琢磨自身は気が付いていなかった。「でも、どうしてなんでしょうね? 九条さんに運転をさせないなんて」朱莉は不思議に思って尋ねた。『それはね、全て明日香ちゃんの為さ。明日香ちゃんは自分がまだ高校2年生だと思っているんだ。その状態で俺が車を運転する訳にはいかないんだろう。全く……せめて明日香ちゃんが自分のことを高3だと思ってくれていれば、在学中に免許を取ったと説明して運転出来たのに……』琢磨のその話がおかしくて、朱莉はクスリと笑ってしまった。「でもその場に私が現れたら、きっと変に思われますよね? 明日香さんには私のこと何て説明しているのでしょう?」『……』何故かそこで一度琢磨の声が途切れた。「どうしたのですか? 九条さん」『朱莉さん……君は何も聞かされていないのかい?』「え……?」『くそ! 翔の奴め……いつもいつも肝心なことを朱莉さんに説明しないで……!』「え? どういうことですか?」(何だろう……何か嫌な胸騒ぎがする)『俺も今朝聞いたばかりなんだよ。翔は現地で臨時にアルバイトとして女子大生と